にっき

ゆるく書きます。日記ぽく。

父親のこと

2019年のはじめに父親が亡くなった。

もう1年以上たったのかーーと思いながら書いている。

 

ガン宣告されてから父親が死ぬまで約5年。宣告を受けた当時からステージはよくなく完治は無理と医師から告げられたらしい。それをあっけらかんと本人から言われた時は、周りの方がショックを受けた覚えがある。

 

幸い抗がん剤が効き、通院しながら仕事をする日々が続いた。副作用といえば髪の毛が抜けるくらいで、食事もお酒もいつも通り楽しんでいた。主治医も「こんなに副作用が出ないのは珍しい」と驚いていたそう。

 

けれどガンというのは手強く、同じ抗がん剤を打っていても徐々に効き目が弱くなってくる。そのため7、8種類くらいの抗がん剤を順番に試していった。

 

主治医からは新しい抗がん剤に切り替えるたびに「まだ抗がん剤治療を続けますか?」と聞かれた。けれどいつも「やってみましょう」と前向きで、なんでこんなにポジティブなんだろう、あほなのか?と思っていた。

 

のちに主治医が言う「まだ抗がん剤治療を続けますか?」は「(体への負担を考えて)抗がん剤はやめて死期が近い人を受け入れるホスピスという施設を勧めている」のだと理解したときは、自然と涙がボロボロとこぼれた。一気に「死」が現実になった瞬間だった。結局、父親の強い意志でホスピスには入ることなく最期を迎えたわけだけど、今思うとただ明日も生きることを疑わず、日々過ごしてたんだと思う。

 

さて2018年の夏に戻る。

父親がいよいよマズい状況であることを知ったのは母親がきっかけだった。と書くと、おかんから電話でもあったのかなと思いそうだが、予想外の展開だった。

 

それは母親が倒れた、という親戚からの連絡だった。

 

翌日の早朝に新幹線に乗り病院へ直行。父親がお世話になっている病院と一緒だった。

 

集中治療室でいろんな管につながれる母親を見た時は、自分が知っているおかんとまるで違い自然と涙が出た。あの時の感情はショックに近かった気がする。

 

すぐに手術が必要とのことで主治医やら麻酔科の先生やらの話を順番に聞き、その都度、手術の同意書にサインを求められる。私と同じく遠方に住む兄たちはまだ到着していなかったため、父親と対応した。しかしそれらを対応するなかで一つの違和感を覚えていた。それは半年ぶりに見る父親がかなり痩せ細っていたことだった。

 

母親の手術は成功。ほっとするのもつかの間、父親の主治医に声を掛けられ個室に誘導される。

 

すると「お母さまからお話は聞いていますか?」というひと言。はて何のことだろうという顔をしていると「実はもうそんなに長くないです」という言葉が返ってきた。ドラマならもっと慎重に言うところ!と今なら思えるけれど、その時はショックだったし、合点がいった。ただただガンなのにいつも元気な父親に完全に油断していた。しまったと思った。

 

母親に倒れた時のことを聞くと、今も「あれは熱中症だった」と言うのだけど、どう考えても父親への不安が影響してたと思う。遠方で働く子ども3人に心配を掛けないよう、迷惑を掛けないように、という母親の性格を考えれば分かる。が、きっと知らぬ間に相談しづらい雰囲気を作ってしまってたんじゃないか、と反省しているし、今回の一連の件で後悔しているのはこのことくらい。

 

しかしこうなると事態は変わってくる。

 

父と母ふたりの看病が必要となり、兄妹3人で相談した結果、順番に対応することになった。その時に「仕事は辞めるな、自分の道を歩め。だから父親のことは後悔しない程度に、がんばり過ぎないようにしろ」と兄に言われたのは今でも記憶に残る。

 

自分の場合は勤め先が地元にも会社を構えているので、月に2週間ほどは地元で過ごし、その間はこっちの会社に出社する生活が始まった。

 

母親は右半身の麻痺が残ることになったので手術後は治療専門の病院に転院。父親は相変わらず通院をベースに時々入院、という具合だった。

 

そのため早朝に起きて父親の朝と昼のご飯支度をして、仕事のあとは母親の病院に行き、帰宅後は父親の晩ごはんの用意をするという日々が続き、軽く死にかけた。

 

父親については未来のない看病なのでなかなか堪えた。それでも乗り越えられたのは、交替制で看病するスタイルを提案してくれた兄たちと、こんな働き方を許してくれた会社(そしてチームメンバー)、ポジティブ野郎な父親のおかげと思う。特に仕事についてはとても息抜きになった。

 

そして2018年の12月。父はだいぶ弱った。

 

昔からにぎわいごとが好きで正月におせち料理を食べることを楽しみにしていたのだけど、入院することになりそのまま新年を迎えた。けれど持ち前のポジティブ野郎は健在でまわりが救われた。

 

母は新しい施設への転院を1月中旬に控えていた。国の制度上、転院先に滞在できる期間が決まっているらしい。

 

相変わらずの日々が続く中、父親が退院することになった。今思うと主治医が配慮して自宅に帰る時間を作ってくれたのかなあと思う。お雑煮を食べたいというリクエストに応えて作ったら「合格や」と言われ、「合格って何やねん」と言い合ったのを覚えている。

 

そのタイミングで兄と交代。しかし入れ替わった翌日の夕方に電話が鳴り、父親が救急車で運ばれたという連絡が入った。それは母親が次の施設に転院する2日前だった。

 

ギリギリその日に病院に着き、すやすや眠る父を見てほっとした。しかし話を聞けば一度心配停止したらしい。何とか戻ってきてくれてよかった。

 

ところで死ぬ瞬間を味わった父親に対して、兄は「心臓止まった時、しんどかった?」と聞いたらしい。すると「すーっと眠るような感覚で気持ちよかったで!それより人工呼吸器を突っ込まれた時に『何すんねん!』と思ったわ」と返答があったとのこと。こんなときに聞く兄も兄だけど、おとんの回答もな、と笑ってしまった。

 

翌々日、父は兄に母の転院の付き添いを託した。代わりに私は父のそばにいることに。「自分で歩いてトイレに行きたいから明日はスリッパ持ってきてくれ。●●も頼む」といろいろ言われ、不謹慎ながらも生きる気まんまんだなと思った。

 

夕方、兄が父親の病院にやってきて無事に母の転院が完了したことを告げると、とてもうれしそうな顔をした。その時にはもう一人の兄や甥っ子たちも勢ぞろいで父親のベッドのまわりは大にぎわい。そんななか自然と父親と兄妹3人だけになる時間ができた。20分くらいだったろうか。昔話に花が咲きよく笑った。その父親の様子を見て兄妹全員が、まだ生きてくれると確信した。

 

「親父、今日はそろそろ帰るな」「死ぬなよ!笑」と声を掛け、父親がベッドから片手を突き出して「死なへん死なへん。アイル・ビー・バック」と返す。文字どおりのカタカナ英語だった。

 

晩御飯を食べ、ひと休みして22時。今日明日は大丈夫だろうということで兄のひとりがいったん帰ることになり、じゃあね~とお別れをしている時だった。病院から父親が危篤状態という電話が入った。

 

病室に入り心電図の様子を見ると時すでに遅し。たった数時間前にはあんなに元気だったのに。だけど目の前にはとても気持ちよさそうに眠る父親がいた。その後は通例のどおりに事が進むわけだけど、なんというか本当に美しい寝顔で心はおだやかだった。

 

父親の本音は分からないけれど、おそらく母親の転院が心配だったんじゃないかと思う。だから一度は心臓が止まるも戻ってきて、母親の転院が無事終わり、安心して眠ったのではないかと。

 

40代50代のころはなかなか難しい父親で恥ずかしい姿もたくさん見てきたので、かっこいい死に方で最後に帳尻りを合わせてきたなと思う。

 

 

まあまあな1年だったはずなのに、時間がたつと不思議なくらいに忘れていることにびっくりしている。父親の死を知りしばらく元気がなかった母親も今では「勝手に死にやがって!」と言っている。体も随分とよくなった。そんな姿を見ていると人間ってなかなか頑丈な生き物だなと思うし、自分を振り返ったりいろんな出来事を覚えておくために、ブログっていいなとひさびさに思った。

 

 

葬式や一周忌、父親のイベントはいつも快晴で気持ちがいい。

 

父親からは

人間って死ぬんだな、ということと

頑丈な生き物であること。

だから適当に生きるくらいがいい。

でも守るべきものは守る。

ということを教わった気がする。

 

日々いろいろあるけれど、私はげんきです。